1994年から現在まで日産のモータースポーツ活動の中心となっているのがSUPERGTのGT500クラス。そんなGT500に日産は様々なマシンを投入し戦ってきました。その中には、圧倒的な強さを誇ったマシンもあればライバル勢の前に苦戦を強いられたマシンも。今回は、現在までGT500で活躍し、戦ってきた日産のGTマシンを一挙ご紹介します!あなたが好きなマシンはどの時代のマシンですか?
スカイラインGT-R(R32)
1994年のシリーズ開幕時、日産の主力マシンは当時国産最強のロードカーとして君臨していたR32型のスカイラインGT-Rでした。
R32はグループA規定の全日本ツーリングカー選手権(JTC)で活躍していましたが、そのJTCは1993年を最後に終了。それに代わる新たな舞台としてJGTCに登場しました。
元々JGTC、はグループA車両の再活用を目的に始まったシリーズという面もあったので、そんなJGTCにR32が参戦するのは自然な流れと言えました。
当時は現在と違い、メーカーの関わりは少なく、マシンは各チーム毎に開発されました。その為空力パーツはチーム毎に違いが見られたり、駆動方式も市販モデル同様4WDを採用するチームもあれば、FRに変更して参戦するチームも。
また、当時のレギュレーションではN1規定のマシンもエントリーが可能となっており、N1仕様のマシンも見られました。
1995年からR33が登場した為、R32がJGTCの一線で活躍したのは約1年という短い期間でしたが、IMPULの影山正彦選手のドライブでGT500(当時のGT1クラス)クラス初レースの優勝マシンとなり初代チャンピオンマシンとなるなど、短い期間でもR32は大きな足跡を残しました。
R33が主流になった後はチューニングショップのJUN AUTO MECHANICが独自に開発したマシンによって1996年までGT500クラスに参戦しています。
スカイラインGT-R(R33)
1995年1月からR33型スカイラインGT-Rの販売が始まると、その年からJGTCにもR33が登場しました。
このR33から現在と同じくNISMOがマシンを開発し、それを各チームにデリバリーする方式が採用。
これ以降のGT-Rは市販モデルと違い駆動方式はFRとなっていますが、登場当時はまだ空力パーツはチーム毎に違いがありました。
1997年頃より空力パーツも各チーム共通の物となり、チーム毎のマシンの違いは無くなりましたが、1995年~1996年頃まではNISMOが開発したワークスマシンの他に様々なバリエーションのマシンが登場しました。
WISE SPORTSは独自に4WD仕様のR33を投入。ストレートスピードはワークスマシンを凌ぐスピードを披露し、悪コンディションでは4WDの特性を生かして好走を見せました。
また、R32同様N1仕様のマシンも登場しました。
R33はR34型が登場した後の1999年まで参戦し、1995年と1998年の2度ドライバーズタイトルを獲得する活躍を見せましたが、この辺りから徐々にGT-Rには苦戦を余儀なくされるシーンが見られました。
そして、後のR34型でGT-Rは屈辱を味わうことになってしまうのです。
フェアレディZ(Z32)
シリーズ発足時にはGT-R以外の日産車も存在しました。
まず紹介するのはZ32型のフェアレディZです。
このZ32のエントラントは現在ではレクサス陣営の一角を担うTEAM LEMANSで、マシンは1995年までは独自開発のマシンで参戦し、1996年からはアメリカのIMSAシリーズで活躍していたマシンをコンバートしてGT500に投入しました。
またこのZ32には現在レクサスのエースとして活躍している立川祐路選手がドライブ。立川選手のGTデビューマシンとなりました。
現在では想像出来ない事ですが、TEAM LEMANSも立川選手も当時は日産陣営だったのです。
しかしZ32はトラブルが多く顕著な成績は残せず、1997年第2戦を最後にGT500から退役しました。
フェアレディZはGT-Rと並ぶ日産を代表するスポーツモデルであり、Z32もIMSAでは大きな成功を収めて来ましたが、GT500ではGT-Rの影に隠れた悲運なマシンと言えるでしょう。
シルビア(S13)
1994年と1995年にはS13型のシルビアも登場しました。
これはN2規定によって開催されていたシルビアワンメイクレース用のマシンをベースにGT仕様にモディファイしたもので、現在SUPER GT中継解説者でお馴染みの、由良拓也氏が代表を務めるムーンクラフトから参戦しました。
ムーンクラフトらしく空気抵抗削減を狙って、空力パーツはムーンクラフトオリジナルのパーツを装着して参戦しました。
ワンメイクレースで実績のあるマシンだった事で信頼性の点では問題はなかったようですが、GT-Rやスープラ・ポルシェ・フェラーリと比べるとパワー不足は否めず、ベストリザルトは開幕戦での4位という成績でした。
翌1995年は別チームからエントリーしましたが、2戦に参戦し共にリタイアに終わっています。
その後シルビアはGT300に活躍の舞台を移し1997年にはS14型が、2001年にはS15型がチャンピオンを獲得しています。
スカイラインGT-R(R34)
1999年からはR34型GT-RがGT500に登場しました。R34はデビューイヤーにいきなりドライバーズタイトルを獲得しましたが、ここからGT-Rは低迷期を迎えます。
R34が登場した1999年から2002年までの4シーズンの間スープラが9勝、NSXが15勝を挙げる一方でGT-Rは僅か4勝に留まりました。
2002年は特に不振を極め、ライバル勢に置いて行かれる展開が続きレースで勝つことを求められるGT-Rがこの年シーズン未勝利という屈辱を味わいました。
低迷の原因としてはエンジンが挙げられました。GT500のGT-Rは市販車同様直列6気筒のRB26DETTを搭載していましたが、この時期になるとRB26も登場から10年が経過しておりレーシングエンジンとしては開発の伸び代が無くなってきていたこと、大きく重い直6エンジンを搭載することによる車重の重さや重量バランスの悪さ、重心位置の高さ等がネックとなっていました。
エンジン以外にもライバルと比べると大柄なボディを持つGT-Rは運動性能でもビハインドを負っていました。
特に予選ではその差が顕著に現れ、R33時代の1996年から2002年までの7シーズンもの間GT-Rはポールポジションが取れませんでした。
その為予選で後方に沈んでも決勝ではマシンの信頼性と安定感、戦略を持って挽回するのがGT-Rのパターンとなっており、日産・NISMOも予選でのパフォーマンスを改善するべく重量バランスの適正化や低重心化、エンジンの軽量化に取り組んでいました。
しかしこの当時はそれでも挽回出来ない程ライバルとはポテンシャルに差が出てしまいました。
「RB26」はGT-Rのアイデンティティであり、簡単に変更出来る物ではありませんでしたが、苦戦を受けて日産とNISMOはR34の大改造に踏み切りました。
2002年途中に投入した新車からはエンジンをV型6気筒のVQ30DETTに変更。
ラジエーターをリアに移設するなど軽量化と重量バランスの適正化を行いました。
更に2003年には車両規則の大幅な変更によりマシン前後をパイプフレーム化。
フロントノーズが低くなりそれまでとシルエットが大きく変わったマシンになりました。
またミッションをリアに搭載するトランスアクスル化や、前面投影面積による重量軽減の補正が受けられたことにより、GT-Rはそれまでの問題点を解決することに成功。
こうしてGT-Rは高い運動性能を持つコーナリングマシンとして生まれ変わりました。
2003年シーズンは、前年にR34が生産中止となった為、R34のGT500ラストシーズンとなり、さらに日産自動車創業70周年のメモリアルイヤーも重なったことからタイトル奪回が至上命令となりました。
この年の開幕戦ではGT-Rは7年振りのポールポジションを獲得。決勝でも8戦中3勝を挙げました。
最終戦ではIMPULのブノワ・トレルイエ選手&井出有治選手組が優勝し、NISMOの本山哲選手&ミハエル・クルム選手組がチャンピオンを獲得しラストレースを華々しく飾りました。
一時は屈辱を味わったR34でしたが、最後にはGT-Rの誇りとプライドを取り戻してGT500の舞台を退きました。
フェアレディZ(Z33)
2003年シーズンに日産はGT300にZ33型フェアレディZを投入。デビューイヤーにいきなりチャンピオンを獲得しました。
そして2004年にはGT-Rに代わる新たなマシンとしてGT500にもZ33を投入しました。
GT500に投入するにあたりZ33はある問題を抱えていました。市販モデルのZ33は前後のオーバーハングが短く、GTマシンに仕立て上げた場合十分なダウンフォースが得られないという欠点が存在しました。
その為日産はロングノーズ、ロングテールの特別仕様車「Type E」を販売。GT500マシンはこの「Type E」がベースとなりました。
エンジン等主要コンポーネントは前年のGT-Rからの流用となっており、ベース車は変わりましたが正常進化と言えるマシンになりました。
デビュー当初は駆動系に爆弾を抱えていたり、接触に弱く壊れやすいという問題点がありましたが、開発が進むにつれて徐々に克服。2004年シーズンは開幕戦のデビューウィンを含む7戦4勝の成績を残しNISMOの本山哲選手&リチャード・ライアン選手組がチャンピオンを獲得しました。
しかし2005年以降はライバル勢の進化の早さにアドバンテージを失い苦戦。2005年は8戦1勝、2006年も9戦2勝に留まりチャンピオンの座を失いました。
2007年はエンジンをR34から採用してきたVQ30DETTからNAのVK45DEに変更し巻き返しを狙いましたがこの年はNSXの圧倒的なパフォーマンスの前に前年と同じく9戦2勝に終わりチャンピオン奪回は成りませんでした。
そしてこの2007年を持ってZ33はGT500から退き、以降はGT300クラスに2010年まで参戦しました。
GT-R(R35)
2007年12月にR34以来となる新型GT-R(R35型)がデビュー。約5年の空白を経て日産のラインナップにGT-Rが帰って来ました。
日産は翌2008年からGT500クラスにR35を投入。新型GT-Rはオフシーズンから関係者の注目を集め、ファンはGT-Rに大きな期待を寄せました。
そんな中迎えた2008年シーズン、GT-Rはその期待に見事に応えました。
開幕戦ではNISMOの本山哲選手&ブノワ・トレルイエ選手組がデビューウィンを飾ると続く第2戦も制し開幕2連勝。
シーズン途中には性能調整苦しむシーンもありましたが、この年はGT-R全体で9戦7勝とライバルを圧倒。本山選手&トレルイエ選手組がデビューイヤーのチャンピオン獲得を果たしました。
その後は世界的な不況により日産が規定に対応するエンジンの開発が出来ず、さらに参加台数の減少が起こる等GT-Rに逆風が吹いたこともありましたが、2011年と2012年にはMOLAが、DTMとの規定統一が行われた2014年と2015年にはNISMOが其々2年連続チャンピオンを果たしました。
特に2014年から2016年にかけては24戦中12勝と勝率50%を記録し、GT-Rはライバルを圧倒するパフォーマンスを見せました。
中でも富士スピードウェイではこの3年間で6戦5勝という驚異的な成績を残しています。
2018年、R35は登場から11年目のシーズンを迎えて日産のGT500マシンの中では最も息の長い車種になりました。
2017年までの10シーズン、R35はポールポジション32回、優勝35回、ドライバーズチャンピオン5回の成績を残しています。
R35は歴代の日産のマシンの中で最も成功したマシンと言えるでしょう。
まとめ
GT-R、フェアレディZ、シルビア。何れのクルマも長い歴史を持つ日産を代表するスポーツモデルであり、レースシーンでも目覚ましい活躍を見せて来ました。
その活躍は人々を魅了し、多くの日産ファンを生み出しました。
その勇姿に魅せられた大勢の日産ファンは毎戦サーキットに詰めかけてスタンドを埋め尽くしています。
実力が拮抗している現在のGT500。レクサスもホンダも非常に手強く難しいレースが続くことが予想されます。
それでも11月のツインリンクもてぎでチャンピオンを掴む為に、GT-Rに関わる全ての人々はサーキットで戦っています。
筆者は日産ファンの全ての皆さんと共に、ライバルと戦うGT-Rを後押しして行きたいと思います。
「GO NISSAN!!」
「GO GT-R!!」