2006年、GT300クラスにレーシングカーコンストラクター、ムーンクラフトが開発したレーシングマシン「紫電」が登場しました。
SUPER GTは基本的には市販車ベースのレースですが、紫電は特認車両としてエントリーしていた純レーシングカーです。紫電と同様の例としてはVEMACやGARAIYAがありますが、自動車メーカーの方針に捕らわれないプライベーターが勝つための選択肢としてこれらのマシンが選ばれて来ました。
2006年当時この紫電には市販計画があり、SUPER GTには開発とプロモーションを兼ねて参戦していました。しかし2018年現在市販化は実現していません。
紫電77、紫電改
GT300に参戦した紫電には先代となるマシンが存在します。1977年の富士グランチャンピオンシリーズに紫電77というマシンが参戦していました。
車体設計は森脇基恭氏、空力設計は由良拓也氏が担当。紫電という名称は由良氏が日本海軍の戦闘機「紫電改」から採って名付けたものです。
紫電77は美しいボディカウルを持ち高い人気を集めましたが、成績は低迷。翌78年には戦闘機同様「紫電改」という名称になりエンジンをBMWエンジンからマツダのロータリーにスイッチするなど改修が加えられましたが、好成績を残すには至らず。
最後はレース中のクラッシュで大破し、紫電はその生涯を終えることになりました。
それから28年後の2006年に、由良氏率いるムーンクラフトが現代のSUPER GTに向けてリメイクしたマシンが今回紹介する紫電です。
メカニズム
高い運動性能を実現すべく、マシンのベースはライリーテクノロジー社のデイトナプロト用のシャーシー「ライリー MK XI」が採用されています。しかしパイプフレームの一部以外はムーンクラフトオリジナルの設計となっており、デイトナプロトのマシンとは異なる構造となっています。車両の前後左右にはカーボン製の衝撃吸収構造体が設置されており、高い安全性が確保されています。
エンジンはデイトナプロト同様のレクサス・1UZ-FEをミッドシップに搭載。パワーは350 ps以上を発揮しました。
車両形式 | MC/RT-16 |
全長×全幅 | 4640 mm × 1995 mm |
車両重量 | 1100 kg |
ホイールベース | 2790 mm |
トレッド (F/R) | 1630 mm / 1625 mm |
トランスミッション | Xトラック 6速シーケンシャル |
クラッチ | カーボン製トリプルプレート |
サスペンション
F: |
ダブルウィッシュボーン プッシュロッド ダブルウィッシュボーン プッシュロッド |
ブレーキ
F: |
PFCベンチレーテッドディスク/ALCON製6ポッドキャリパー PFCベンチレーテッドディスク/ALCON製4ポッドキャリパー |
タイヤ
F: |
ヨコハマ 280/710-R18 280/710-R18 |
ホイール
F: |
American Racing 11J × 18 11J × 18 |
エンジン形式 | 1UZ-FE(TOYOTA) |
エンジン仕様 | 縦置き水冷V型8気筒 |
排気量 | 4200 cc |
ボア×ストローク | - mm × - mm |
リストリクター | 24.3 mm × 2 個 |
最高出力 | 350 ps以上 / 6500 rpm |
最大トルク | 40 kg-m以上 / 6000 rpm |
オイル | WAKO'S |
戦績
紫電は2006年開幕戦鈴鹿でデビューし6位入賞。第8戦オートポリスでは初優勝を果たしました。デビュー直後から上位争いを演じ、7年間で通算4勝を挙げました。
タイトル争いにも加わりましたがドライバーズタイトル獲得はあと一歩のところで叶いませんでした。特に2006年と2007年は2年続けてトップと同ポイントながら、上位入賞回数の差でドライバーズタイトルを逃すという悲運に見舞われました。(チームタイトルは獲得)
2011年と2012年はヱヴァンゲリオンレーシングとのジョイントにより、それまでの青いカラーリングから紫を基調としたヱヴァンゲリオン初号機カラーに。
2011年以降はFIA GT3マシンの台頭や、レギュレーションの締め付けが強くなったこともあり徐々に成績は低迷。さらにレギュレーションにより2013年から少量生産スポーツカー(VEMACやGARAIYAもこれに該当)の参戦が禁止されることから、2012年を最後にSUPER GTから引退することになりました。
この年はランキング11位に沈んだシーズンでしたが、第2戦富士では2位表彰台を獲得しておりパフォーマンスは健在であることをアピールしました。
引退レースは2012年の富士スプリントカップのレース2。紫電のレース全てでステアリングを握った加藤寛規選手がドライブ。
最後のレースでも加藤選手がトップ争いを演じ惜しくも優勝には届きませんでしたが2位表彰台を獲得し、ラストを華々しく飾りました。
こうして紫電はサーキットを埋めた大勢のファンから送られる歓声と拍手を浴びながらSUPER GTの舞台から退きました。
その後紫電はエンジン、スペアパーツ付きで売りに出されていましたが、現在はムーンクラフトで保管されている模様です。
まとめ
市販車ベースのレースであるSUPER GTにおいて、少量生産スポーツカーは議論の対象となって来ました。
特にこの紫電は、少量とはいえ市販化されていたVEMACや市販化は実現しなかったもののナンバーを取得したロードカーが存在するGARAIYAと違い、ロードカーが存在しないマシンであり、そんな紫電には当時賛否両論がありました。
しかし遅いマシンだったなら賛否両論が起こることは無かったでしょう。賛否が出る程速いマシンだったと言えます。
1台しかないマシンでデータも少ないなかマシンを仕上げて来たチームはお見事だったと筆者は考えています。
今後紫電がレースに出ることは無いと思われますが、出来るならまた走るシーズンを見てみたいと思っています。